功山寺は嘉暦2年(1327)に創建されたもので、日本に残る最古の禅寺(ぜんでら)様式を残していることから、昭和28年に国宝に指定されている国宝寺です。
弘治3年(1557年)には、山口を西の京と呼ばれるほどに繁栄させた大内氏滅亡の舞台となり、文久3年(1863年)には幕末の英傑である高杉晋作が挙兵した舞台としても知られています。
また、秋になると境内の紅葉が赤く色づき美しい姿を見せてくれることから、山口県の紅葉名所としても人気の高いスポットです。
大内氏滅亡の舞台
功山寺が大内氏滅亡の舞台となるキッカケは、家臣である陶晴賢(すえ はるたか)の謀反によって大内氏が攻め滅ぼされることから始まります。
陶晴賢は、攻め滅ぼした大内氏に変わり養子である弟晴英(はるひで)を大内義長(おおうち よしなが)と改名させて大内家の当主に据え、大内氏の実権を握ることに成功するのです。
しかし、陶晴賢は厳島合戦において毛利元就(もうり もとなり)に破れて敗死してしまい、敗走した義長は家臣をつれて長福寺(功山寺)に入りますが、毛利軍に包囲されると恨みをのんで自刃したと伝えられています。
義長は最後にこんな辞世の句を残しています
「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
嵐が来なくとも時が来れば儚くも散る花を人の人生にたとえた義長は、戦に敗れて死ぬことを誰も恨むことなくこの世を去りました。
維新発祥の名刹
幕府による長州藩への懲罰として15万もの征長軍派遣が迫る中、藩の存亡の危機に幕府への恭順やむなしとする保守派が勢いを増す長州藩。
自らが組織した奇兵隊からも賛同を得られないまま、保守派打倒のために僅か80名足らずの人数で挙兵したとされる舞台は功山寺でした。
元治元年12月15日の雪が降る夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊ら長州諸隊は功山寺に集結し、客殿には三条実美ら五卿が潜居していました。
玄関外まで見送りに出た五卿らに晋作は、「これより、長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と伝えたとされています。
長州諸隊は雪の中を進軍し、未明には藩の新地会所を襲って占拠、さらに三田尻に赴き藩の軍艦3隻を奪って下関に戻ってきます。
この晋作の鮮やかな手並みに、当初は反対の立場であった奇兵隊をはじめとする諸隊も加わりこととなり、保守派を相手に次々と勝利をおさめた長州諸隊は村民の支持を得て2000人にも達する規模となるのです。
後に藩の実権を握った晋作は藩論を討幕に統一し維新の礎を築いたのでした。
後の研究によると、藩の新地会所では空砲を撃つと取締役の根来上総が開錠したとされており、三田尻の海軍局は最初から長州諸隊の一つと考えられいることから、無茶を不屈の意志で通すイメージがある晋作ですが、事前準備をしっかりするような冷静沈着な一面を持つ男だったのかもしれませんね。
紅葉の名所 功山寺
功山寺の魅力は歴史にまつわるエピソードや建造物だけではなく、美しい紅葉を見ることが出来る紅葉スポットとしても有名です。
桜の花が散り春が終わっても紅葉の美しい秋が来る功山寺は、この地で世を去った義長を今も慰めているのかもしれません。
フジモフから一言
西の京と呼ばれるほどの栄華を誇った大内氏による歴史の終わりと、明治維新への新しい時代の幕開けの舞台となった功山寺。
その功山寺がある長府城下町は、徒歩圏内に歴史的な建造物が幾つもあるのでデートや観光目的での散策や、四季折々の風景を撮影することでも楽しむことが出来ます。
また、古い町並みが広がる場所であることから、各地へ車での移動は狭く感じる人も多いかもしれません。
長府毛利邸や功山寺近辺には有料の駐車場が完備されているので、こちらの駐車場を利用して散策するなどして、あまり無理して狭い道を車で移動しないことをお勧めします。
※功山寺には無料駐車場がありますので、功山寺参拝のみの人はこちらを利用するといいかもしれません。
功山寺のある長府城下町には、こんなスポットもあります。
功山寺へのアクセス
功山寺(こうざんじ)
所在地:山口県下関市長府川端1−2−3
電 話:083-245-0258
駐車場:無料駐車場あり
アクセス
〇中国自動車道 下関ICから車で約15分
〇JR山陽本線長府駅からバスに乗り「城下町長府」バス停で下車して徒歩で約10分程度
〇JR下関駅からバスに乗り「城下町長府」バス停で下車して徒歩で約10分程度